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トキトク(スカロ族長)は敏感だった。多くの平地人の侵入、妹の結婚の悲劇、外国船の到来によって、彼は時代の大転換を実感していた。これまで自分たちは百年、変化のない天地に閉じこもり、その境遇に安んじて安逸な日々を送ってきたが、いま過酷な挑戦に直面していた。彼は、この非常事態に対応するために手助けが必要だった。

1858年の天津条約により、清国政府は台湾の貿易も開放した。一度に淡水と安平の二港を開港した。ルジャンドルにはそれは台湾には樟脳、茶葉、砂糖があるかだらと分かっていた。北京条約(1860年)で鶏籠(キールン)と打狗(高雄)が増えたが、ルジャンドルには鶏籠には炭鉱があるからだと考えた。今回のフォルモサ行きで、ピッカリングの一言が彼を目覚めさせた。フォルモサは、物産が豊富なだけでなく、その位置が戦略的に重要だったのだ。

1854年にアメリカ海軍のペリーの艦隊がやって来て、最初のフォルモサ地図を作った。

1854年に、旗後に最初の洋行が設立され、アメリカ人ロビネによって開業された。

ジョージポッターは、台湾道台裕鐸と、米国の商人が打狗港の建設を請け負い、その代償として台湾樟脳の販売代理の独占権を得る契約を結んだ。

1866年に、マックスウェルが打狗に伝道と医療の為にやってきた。

彼女(蝶妹)は、異なる民族、異なる宗教、コロナる文化の証人であり、そこには優劣はないことの証人でもあった。彼女について言えば、彼女は異なるものをすべて受け入れる存在であらねばならなかった。なぜなら、彼女の血や子供の血には、それぞれの民族の記憶と信仰が流れているからだ。将来自分は、観音を信じ、同時に姥祖を信じるようになるだろう。

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1867年にこの砂浜で台湾史の蝶が最初に羽ばたき、その羽ばたきから1874年の日本人の「台湾出兵」が生じ、つづけて1875年の沈葆の「開山撫番」が生じ、1885年の「台湾建省」が生じた。さらに1895年から1945年にいたる50年の「日本統治時代」もこの羽ばたきから生じたのだ。日本人が台湾から離れるまで、この砂浜で生まれた台湾史の蝶はその力を発揮し、そして忽然と止まったのだ。(楔子)

もし台湾「本土」の、そして「中国本土」でない目で見れば、1867年は台湾史上重要な一年である。この年は、康熙帝が台湾渡航禁止を公布してから(1683年)、台湾および台湾人が世界史から184年間、姿を消してのち、再び国際舞台に登場した年である。興味深いのは、舞台の主人公は、当時台湾を治めていた大清国の文官や武将ではないことである。主人公は、大清朝廷およびその治下の民衆が軽蔑する生番(原住民族)の大頭目である。(後記1)

1867年の台湾社会は多民族社会であり、本書の舞台となった瑯嶠は、まさに当時、多くのエスニックグループが並立し、雑居するもっとも典型的な縮図であった。「瑯嶠」は今の屏東の枋寮以南を指し、当時は大清国の統治に属さない細長い地域で、いまの恒春半島より少し大きかった。1867年の​瑯嶠には、福佬人中心の柴城、客家人中心の保力、平埔族のマカタオの大集落の社寮、そして外部と接触しない傀儡山生番(パイワン族、ルカイ族、スカロ族)があった。(後記1)

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「フォルモサに咲く花」陳燿昌著・下村作次郎訳、東方書店

 

茶和人一樣,傷口可以讓你脆弱,也可以讓你堅強。正是傷口讓你與人不同(茶金時光@花蓮)

茶と人は同じです。傷が貴方を弱くすることもあれば、強くすることもあります。それこそが、貴方が貴方である、他の人との違いになるのです。

「私たちが他人を信じないのは、他人のものの見方が分からないからだ」

「ざっくりとした合意とは、”満足ではないにせよ、みんなが受け入れられる”ことを表しています。そういうコミュニケーションには、完敗の人も完勝の人もいません。でも投票すると、少数の方が負けることになります」(コンピュータ科学のパイオニアDavid D.Clarkの名言”いかなる議論の場でも、我々は王も大統領も投票も認めない。我々が信じるのは、ざっくりとした合意(rough consensus)と、動いているコードだけだ"を唐鳳が意味を説明)

「1時間以内にユーモアを交えて本当の情報を発信し、反撃する」ことができればネット上でフェイク情報に勝つ

唐鳳は信じている。”未来に変化が起こる事”を願うなら、今小さな変化を起こす必要がある。

唐鳳は”未来は既にある、まだ均等にいきわたっていないだけだ”という言葉を好んで引用する

「未来の創造に参加するだけで、すべてが予測不能でなくなります」

今回のコロナウイルス感染症で「世界中が運命でつながっている事を、多くの人々が理解した」

「自分で勉強することのメリットは、他の人に見つけられないものを見つけられる」ということ。

新しい事を学ぶ時の秘訣は「新しい習慣を作る」「科学的な研究によると、新しい習慣を一つつくるには一般的に約2カ月かかります。。決心して実行すれば、1年で6つの新しい習慣を作ることができます」

「二次投票法(QV)は、投票する人が自分の望む投票の組み合わせを考えることができます。分散投票である為、自分が投票した複数案のうち一つでも選出されれば参加意識を感じることができます」

(「An唐鳳オードリー・タン」2020年、文藝春秋より)

「未來的電動車,就是iPhone加上4個輪子」

(未来のEVは、iPhoneに4つのタイヤを加えたようなものだ」(鴻海創業者郭台銘)

「台灣數百年來,都是被外來政權統治。直到1996年台灣第一次由人民直接選舉總統,才正式脫離外來政權的統治」

(何百年もの間、台湾は外国の政権に支配されてきました。 1996年に台湾人が初めて直接選挙で総統を選出して初めて、台湾が外国の支配から正式に解放されたといえます)(2015-05-05 民主先生與青年對話 前總統李登輝二度蒞臨中正大學談台灣主體性より)

「你可以哭泣,但不要泄氣。你可以悲傷,但是不要放棄。因為明天 起來,我們要像過去四年一樣的勇敢,心裡充滿着希望」

(みなさんは泣いてもいいが、落胆してはいけない。悲しんでもいいが、あきらめてはいけない。明日からは、また以前の4年間と同じように勇気と希望をもつのです)(蔡英文2012大選敗選感言)

 

「台湾の人々は私に期待している。やらなくちゃいけないと思ってきた」

(李登輝、司馬遼太郎との対談1994頃)

 

「我在台灣居住、工作四十年,我是台灣人 ,我也是中國人」

(私は台湾に住んで、仕事を40年、私は台湾人であり、中国人である)(1987年、蒋経国)

魚說:「你看不見我眼中的淚,因為我在水中。」

水說:「我能感覺得到你的淚,​因為你在我心中。」

魚が言いました「あなには私の涙が見えません、なぜなら私は水の中で暮らしているから、」

水が言いました「私はあなたの涙を感じることができます、なぜならあなたは私の心の中にいるから」(「流」東山彰良の作中の一文、その元の故事)

「私が撮っているのは、日本が台湾にいた時代の”台湾史”であり、台湾の歴史の一部です。日本人の歴史ではない。」「いろいろな民族が一体になれるとき、その国がもっとも強くなれるとき。民族でも、政党でもどんなグループでも、違いを乗り越えて協力することができるときに強くなれて、逆に分裂して協力できなくなると弱くなる」「霧社事件の発生は、お互いの民族が理解や協力を避けたからこそ起きた」「逆に"KANO"は一つのチームにおいて、階級や民族がないとき、霧社事件のような衝突ではなく、甲子園での活躍という結果が生まれる」(映画監督 魏徳聖、野嶋剛「映画で知る台湾」より)

人は同時にふたつの人生を生きられないのだから、どんなふうに生きようが後悔はついてまわる。中国に行っても後悔するし、行かなくてもやはり後悔する。どうせ後悔するなら、わたしとしてはさっさと後悔したほうがいい。そうすればそれだけ早く立ち直ることができるし、立ち直りさえすればまたほかのことで後悔する余裕もうまれてくるはずだ。突き詰めれば、それが前に進むということなんじゃないだろうか。(「流」東山彰良、2015年、より)

「太陽が桃の花の蕾をひらかせるように、ごく自然に、台湾における”空想”の部分が消え、現実の島と住民に根ざした国が​、生物学的なおだやかさで再誕生する時代がくるのに相違ない。。いまからの台湾は、アジア的な先例にこだわらずに、住民がつくってゆくにちがいないのである」(司馬遼太郎”街道をゆく 台湾紀行”)

「浜野弥四郎はバルトンの遺業を継ぎ、在台二十三年に及んだ。官職が一介の衛生課長でおわったのは、台湾における衛生土木を完成させるためだった。昭和七年、病没した。。。後藤、高木、浜野らの努力で、台湾における上下水道の整備は、日本内地よりもはるかに早い時期に完成した」(司馬遼太郎”街道をゆく 台湾紀行”)参考ビデオ

「客家は現実を客観視する、と言われている。同時に気性はげしく、漢民族的現実主義から離れ、宙空にある自分の視点を頑固にまもるとも言われている」「漢民族における郷党意識という地面から、すこし離れている。だから中国全体を見回すことができ、ときに中国文明を代表することができる」(司馬遼太郎”街道をゆく 台湾紀行”)

「人間は、自尊心で生きている。他の郷国を植民地にするということは、その地で生きているひとびとのーかれら個々の、そして子孫にいたるまでのー存在としての誇りの背骨を石で砕くようなものである」「霧社事件は、もし山地人の警官たちにたいする反発や憎悪がなかったらー明治以来の警官たちが住民の自尊心を傷つけつづけなかったらーおこらなかったはずである」(司馬遼太郎”街道をゆく 台湾紀行”)

​「大きな時代のうねりの中で、日本と中国と台湾が近代のドラマでは、一人ひとりの台湾人が本人の力だけではどうにもならない形で人生の選択を迫られ、ときには予想外の方向に追いやられながら必死に生きてきた。そんな人の人生を知れば知るほど、政治的な立場の違いはあっても、この20世紀の日中台を生きた台湾の人々に対して、等しく畏敬の念を抱かずにはいられない」(野嶋剛、台湾とは何か、2016)

「人間にとってのアイデンティティは、必ずしも教育やイデオロギーだけで決まるものではなく、個々人が抱いている実体験によってしか本当の意味で形成されない」(野嶋剛)

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