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新竹11年

2010年1月末に新竹に来てから11年が過ぎた。初めての教育職で何を教えれば良いのか模索しながら最初の2年が過ぎた。非常に忙しく、その頃に中国語を習わなかったため、今でもきちんと話せない。台湾の人は人懐こく、初対面の日本人を見るとすぐに「何年いる?」と聞いてくる。3年目位までは平気だったが、4年を過ぎるころには少し恥ずかしくなった。「大学は英語だけで済むから。。。」と言うと、大抵それ以上は突っ込んでこないが、今では同じことを聞かれると少し申し訳ない気持ちになることもある。ジーコがサッカー日本代表の監督になるかどうか話題になっている頃、TVのコメンテーターが「ジーコはもう長年日本にいるのに片言の日本語すら話しているところをみたことがない」と言っていたのを思い出す。自分は少し感じの悪い日本人かもしれない。しかしながら、大学教授がいつも感じ良くしている必要はないとも思っている。テニュアというのには、それなりのプリンシプルが伴うべきだろう。


物理学の研究は、大抵ハミルトニアンやマスター方程式を書き下すことから始まる。自然現象をよく観察し、研究対象が主な現象として顕れてくるよう粗視化する。それが何の役に立つのか?典型例の一つとして拡散現象が挙げられる。コップの水に落としたインクが時間と共に広がって行く現象は拡散方程式で説明できる。半導体中の伝導電子がフォノン散乱に晒されていることを認めれば、PN接合の順電流は同じ拡散方程式で表せる。これは拡散方程式を事前に知っていなければ見つけられない。電子工学の基本であるドリフト拡散方程式の半分がまさにこれである。自然界の別のレイヤーにある、一見すると無関係な現象が同じであることを知るのは醍醐味のひとつだろう。だが物事には限度があり、より注意深い研究者は適応限界を知るのに余念がない。基礎知識というのは想像を掻き立てる面白いことだけではなく、そういう細かいことの積み重ねも重要なのだ。一方をおろそかにして便利な方程式をやみくもに濫用すると失敗する。失敗に気づけるくらいならまだましな方で、気が付かないまま放置されていることもある。11年前まで日本にいる頃、現場でそういうのをよく見かけた。教育に問題があると思った。やはり電子工学をやるにもきちんとした自然科学の基礎知識とそれを習得するための訓練が一定以上必要だろう。台湾の電機・電子の学生に量子力学や統計力学を教えているのはそのためだ。もちろんすべての技術系・理系の学生が研究者になるわけではない。多くの学生が求めているかどうかは問題ではなく、リベラルアーツの砦であるべき大学では、少数の需要にこそ答える度量が必要だろう。スティーブ・ジョブス曰く「イノベーションとはリベラルアーツとテクノロジーの交差点にある」。今後トランジスタの構造が大きく変わると開発難易度は高くなるはずだ。そんな時、何が必要か見抜く眼力を養うのは、若いうちに越したことはない。

(新竹市 Wさん)


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